今年もまた桜の季節になった。
古来から・・・というほどでもないのだが、桜は日本人の感性に合うのか、
ことに親しまれてきた植物であるとも言える。
確か、万葉集では桜よりは梅の歌の方が多かったと思う。
それが紫宸殿の「左近の梅」が「左近の桜」に変わった
仁明天皇治世頃からか、
花と言えば桜を指す代名詞となった。その頃にはもう桜は花の王者
としての地位を獲得していたのだろう。
江戸期の「葉隠」や、本居宣長の言う散華の思想は、
日本人の美意識の一部分を抽出してもいるのだが、
それが特定の主義と結びついた時、
嫌らしい感じを否めない。そういうのは桜にとっての受難だ。
ただ単純に桜を愛でれば、それで良いと思う。
私もことに高齢になってから桜と紅葉は意識の深層の一部分を占める
ようになった。
私の中に桜と紅葉は抜きがたく存在していることを、それぞれの季節に
なれば否応もなく自覚する。それで桜や紅葉を見にしばししば
出向くのだが、とはいえ仕事を持っていた頃にはそれもままならない。
好んで桜を見に行き、写真を撮るという行為は10年ほど前からのことだ。
西行の山家集にある歌、
「身を分けて見ぬ梢なく尽くさばや よろずの山の花の盛りを」
(岩波文庫山家集31P春歌)
私もまた、この西行歌に激しく共鳴する。
桜は桜でありそれ以外の何物でもなく、もしも個人的な何物かを付託
させようなどということは滑稽以外の何物でもない。桜を自分なりに
愛でたいということは終生、私から抜け出ることはあり得ないが、
それは私の生の充足のために私が持ち続けて行く責務のようにも感じている。
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